昭和四十四年六月九日 朝の御理解
X御理解第七十八節 「神の機感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄一筋となって、これが神の機感に適うたのじゃ。神の機感に適わぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
御理解第七十八節に、神の機感に適うた氏子と、いうところがございますが、えー信心をさして頂いて、焦点を神の機感に適うた氏子にならせて頂くというところに焦点を置かなきゃならんのですよね。神の機感に適うた氏子。これが、一番大事な所なんです。そこで今日はここんところをね、一番最後のところに「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」と結んでおられます。「大恩を知れば、無事達者で」という「無事」というところ、ね。ここんところを少し頂きたいと思うんです。
神の大恩を知れば、達者ということはこれはまあ、健康ということですけれども、その上に無事ということ。そんなら信心をして神の機感に適う氏子になれば、何ーにもない、いわば平穏無事ということを申しますが、いわば無風状態、なあーにもない。というような状態になるかと、そういうおかげが受けられるのかと。そうじゃないと思うですね。それでは人間、退屈してしまいますよね。ある人が言ったように、極楽行ってから、ほりゃもう、極楽ぐらい退屈なところはなか。蓮みたいのうえに、ちゃあんとから座ってから合掌しとらにゃならん。それが極楽。というようにね、蓮みたいの上にちゃあんとから座とかにゃならんというなら、なあにもない、どんなにみんながそこに百味の御食を持って来てくれても、どうしてもですよ、こんな退屈なことはなかろうとこう思うのである。人間、私はそういうそのー、平穏無事であるということ、なあにもないというような状態だったら人間本当に退屈してしまうでしょう。ですからここで、無事達者で子孫も続き身代もできるといったような、このー、おかげを頂かせてもらう、ここで言うておられる無事ということはね、そういうなあにもないということじゃないと思うんです。そりゃやはり、雨もあれば嵐もあるかもしれません。ね、それこそもう、暑い夏の日のような日があるか思うと、寒い霜の朝のような朝もあろうということ。問題はそこをです、そこを有り難く頂かせて頂くということが、無事につながることなんです。
ね、そこを勿体ないなあーとして頂いていくところに極楽があるのです。恐れ多いことじゃなと、頂くところにです私共は、いよいよ謙虚な生活が出来るんです。ね、恐れ入った生活、私しゃどうでもひとつその、神の機感に適う氏子と最初に言うておられる、その神の機感に適う氏子というのはね、そういう、例えば、寒かろうが暑かろうが、その中に有り難いを感じさしてもらう、もらえれる信者、氏子。日にちが恐れ入った生活が出来れる信者氏子。ね、そこにおのずと私は実意丁寧神信心がなされてくる。それが神に機感に適う。神の機感に適うから子孫も続き、身代も出来てくるというおかげになってくるんですよね。
ですからどうでもその神に機感に適う、神様の御心に適う私にならせて下さい。という願いが、どうでも必要だということなんですね。そこで私しゃここで一番問題になることはですね、人間関係だと思うんです。ね、様々な難儀がございますけれども、人間関係ほど難しいことはないと思うんです。教祖の神様でも、やはりご晩年のころまでこの人間関係には、やはりひとつの悩みを持っておいでられただろうとこう思うのです。いくらものお子さん方がおられます中にも、そう、もう生神金光大神の言うとおり、言うこと聞くばっかりの子供は、ばっかりじゃなかった。親のいうことには背かれる。ね、まあいうならば、道楽をされる。そして、いつも親のところに、いわゆる金光大神のところに無心をいうてこられるというようなお子さんもやはりおられたのです。ね、それですから例えばお子さんが無心にみえられて、もういつもその金を取りに来るという。ほれで他のお子さんたちがですね、まあお父さん、であられる金光大神に、兄さんだけにはああしてそのお金をやられる、自分達はもらわれんというて、まあ不足を言われたちゅう。ところがね、たくさんご飯を頂かなければ腹一杯にならん人間もおりゃあ、少しばかりで腹一杯になる人間もおる。ね、あれはたくさん食べなければ腹一杯になれんのじゃとおっしゃったそうです。同んじことだちゅう。おまえ達は少しばかりで良いほうが有り難いじゃないかという訳なんです。そこにはほんとに困ったやつじゃあるというふうに頂いておられないんです。ね、
昨日はもう、ほとんどあの、私が御取次さして頂く難儀な問題というのは、まあ、ほとんど人間関係だった。続くんですよねえ、あんなにふうに。まあほんとに頂いて聞いてみると難儀なことだなと思いますよねえ。せっかくたまったと思うと主人である中心である主人が、あのーお酒を飲み出す、飲み出したら限りなく飲む。そんために息子も娘ももう仕事をする気になくなったちゅう訳です。そんために家が真っ暗になってしまうちゅう。うん、
ある青年が参って、結婚の相手の人が体が病身だというので、えー金光様の御信心を頂いたら、ね、いつか親先生のお話を頂いて、私の話を聞いてから、いくら病人でもよかばいちゅう、おかげさえ頂きゃよかろが、私がいうちゅう、私共の家内なんかはもう私共の大坪の家に来るまでは、もうほんとに病人だ、病人もひどい病人だった。寝付かんならんちゅことじゃないけれども、いつもどんな夏の暑い時でもさらし一反ここのところに巻いとかなければ、そのすぐ胃が痛むという、痙攣を起こすんです。たら足にです、どんな真夏でも足袋だけは履いとかなけりゃいけん。そういうその弱い人でしたけれども、大坪の家に来てからこのかた、ほんとに病気らしい病気もしない。一回その胃痙攣というのを起こしました。ひどいですねえ。それがいつもだったちゅうんですから。北京時代でした。もうそれ一回きりでした。ね、私と一緒にやはり信心をしてくれましたが、おかげでです、もうほんとに皆さんご承知のとおり、もうこの人ぐらい強い人はなかて、この人のまね出来るものはおるまい。第一寝る時間がない、もうずうーと、さばけんからじゃあるけれども勝手のことで何かこそごそこそごそしとらなければできんて、これだけの所帯を、の中心ですから。というようにその立ち働かして頂いておるけれども、まあ、時々はゆっくり寝らにゃということもないほどにおかげを頂いておる。だから問題はおかげ頂きさえすりゃいいんです。
桂先生の奥さんもそうであった。世間では病み袋というほどしに弱かった。ね、というてその桂先生が渋られたんですね、四神様がこの女と結婚せろと仰っしゃたんです。ところがあの人は世間では病み袋というほどしに弱い、なるほど病み袋というほどにたくさんの病気があるから、沙美というね、御本部の向こうのほう、降りたとこの海岸でしょ、そこから毎日お参りをして来る。その娘さんが、そのいわゆるあのおミツであった。そのおミツさんを桂先生もらえいとこういうわけです。ところがあの娘さんは、世間では病み袋といほどしにたくさんの病気を持っておる人だという訳です。ね、その病み袋がね、健康になればよかろうが、というようなのことをおっしゃっておられます。いやおかげを受ければよかろうがということを言うておられます。ね、桂先生は、えー早く亡くなられましたけれど、奥様は九十いくつまで長生きされたんですからね。なるほどおかげさえ頂きゃいいのである。
ところが内の青年の場合そうなんですけれども、たいへん気心もいいし、お互い気分も合うていいんですけれども、ただ、問題は不健康であるということである。高校時代に病気のために、そこを高校を中退しとります。というようにあるのだから、まあそこに不具の面があった訳ですね、だから問題、信心さえしてくりゃいいから信心の話をするけれども信心には全然耳は貸さない。ただ、娘さんの一家が素晴らしい。こちらは一家で信心をするのですから、だから信心しなかったら、信心してくれれば、まあ不健康であってもおかげ頂けばよいのです思うとったですけれども、信心になかなかなろうとしない。一遍、親先生に連れて来てから見てももらいたいと思うけれども、神様何んかちゅうて、もう全然問題にしない。
ね、ところが昨日参って来てです。おかげ頂いたというてから参ってきたんです。とにかくそんなら御神米頂いとってくれというて渡しとった。ところがその娘さんの入っておる寮のおばさんに、あの人が渡しにこんなお守りさんみたいなのをくれたというて見せたんです。そしたらそのおばさんがびっくりしたんです。あんたはおかげ頂いとんなさるですばい。これは金光様の御神米。しかもこれは三代様のお書き下げ、どうしてこげんものを手に入れなさったですか、というてその言われたとこういう。その方は熊本である教会で修行してから、お道の教師になられて、そして、ある都合でですね、寮のまかないをしておられる、四十幾つになられるおばさんである。そして、その懇々と金光様のその寮のおばさんには親のようにいつも親切にしてもらうもんですから、相談をする人だったらしいのですよ。だから、そのおばさんが言うたから金光教の御信心は立派な神様だ、信心だということが分かった。また、そのおばさんが金光様の先生であることも分かって、そのおばさんがどうでもひとつそういう所があるならお引き寄せ頂きたいから、あんたもそのときどうでもこうでも参りなさいと。二人が今からお参りするのを楽しみにしておりますと、こういうのである。
もう神様のお引き回しというのは、本当に恐れ入ると、こういうのです。いわゆる、その恐れ入るということ。どういう例えば、その難しい人間関係の事であってもです、それを願い、御取次を頂いておかげを受けてゆくところから、いわば、そういう難しく見える問題も自然に解決のおかげを頂いてくる。
お互いが神の大恩を知りませんと、人間を軽く見る。人間尊重が出来ない。そこから人間関係がややこしくなってくる。又は、やはり、人を憎むといったようなこと。嫌う憎む、そういうようなことがです、大恩を知らんから憎んだり、嫌いになったりするのである。神様の氏子としての見方が出来ると、その前にありますように、陰で人を助けるというようなおかげが頂かれん。陰で人を助けるような心持ちが出来てまいりますとね、どんなに目に余ることがありましても、どんなに嫌な問題がありましても、例えば、言わんで済むおかげを頂くために大きくなれる。大きゅうなれ、大きゅなれと。ですから何故そう大きくなれるかというと、神の大恩を知るから大きくなれれる。
家の中で何か、嫌な雰囲気というですかね、人間関係がスムーズでない、ほがらかでない、明るくない訳です。何とは無しにお互いの足元ばかりを見ておる。そして、何かそこに機会があったら、もう今にも爆発するような雰囲気、そういう雰囲気の中には、もう、絶対、子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りのおかげといったようなおかげはうけられないと思うのですよね。
私はですね、どういうことを見ても、どういう嫌なことに出会ってもですね、どういう例えば、人間関係の中にあってもです、人の悪しきは、我悪しきとして頂ける信心。人の悪いのは自分が悪いのだと。冷たい人だとか、根性の悪い人だと言うふうに見えたら、自分が冷たいんだ。自分が根性が悪いんだというふうにです、私は悟らして頂いたらいいと思う。その人が冷たいとか、根性が悪いというところばかりを責めようとする。それを嫌だ嫌だと思うから嫌いになっておる。これなども神の大恩を知ると、そこがはっきり分かってくる。人じゃないのだ、自分だと。ね人の不行状を見て、我が身の不行状になる事と。これでは人間関係がうまくいくはずはありません。
親子の仲でも兄弟でも同じ屋根の下に住む人間同志がです、憎み合ったり、あらの探し合いをしたんでは、これはいつまで経っても人間関係がスムーズに行くことはありません。そこで信心を頂いておる者が、まず、ひとつ大きくなる豊かな心で、それを見聞き出来るという内容がです、只、何故大きくなれるかというとです、神の大恩が分からして頂くと、それが自分のほうへ持って来る。子供の悪いのは親が悪いんだと。家内が悪いのは主人の私が悪いんだと、とゆうようにです。そして、自分という者を本気でそこに見極めて、そこにいくときに、そこから私は、道が開けてくる。このことだけは言うておきたい。これだけは言わにゃと、というようなことでも、神様がどういう御都合があって、ああいうことを言うたりしたりしておるか分からんのであるから、言わずに辛抱さして頂いておかげを頂いておると、自分自身の方へ持ってきて、改めていきよるとです、もう何でもない、それが時間が経ったら全然、言わんでも済むことを、そのときには切実に言わにゃおられないようなことになっておるのです。言いたいことは明日に言えと俗に申しますけれども、その間が信心辛抱であり、その間が自分を見極める時なのである。そういうです、様々な問題は、私共の日常生活の中にはたくさん有る。特に人間関係は実にややこしい、難しい。難しかっても、そんなら教祖様がお子さん方にもやはり、そういう難儀を感じられたであろうけれども、頂き方がです、どんなに金を使う子供がおりましてもです、あれはたくさん食べなければ、腹一杯になれない子だというような頂き方をしておられる。困った奴だというふうにはいうておられない。もちろん、その内容としてはです、神様にひた詫びに詫びておいでられ、自分自身の心の上にも、それをお考えになったことであろう。次々に頂いておる御理解から頂いても、それをそうと拝察する事が出来ます。いわゆる、私共もそういう私は頂き方、考え方、信心をさせて頂くと、ものの見方が変わる、考え方が変わって来るというのは、神の大恩が分かって来るから、ものの見方が変わってくる、考え方が変わってくるんです。
神の大恩を知らして頂くために、神の大恩を知らぬから、例えばそのような難儀な、ただ今、申しますようなことになってきますけれども、そんなら、神の大恩を知るためにもです、私共が信心辛抱しなければならない。本気で教えを行じてです、人の悪しきは、我悪しきとしての頂き方をさして頂く。そこからです、神様の大恩をまたいよいよより分からして頂く事が出来る。そして、総てを神様の御都合として受けることが出来る。どんなに目に余ることであっても、困ることであっても、そこから必ず道がついて来る。いや道がついて来る、そのことのおかげで自分が深められる。自分が修行が出来る。信心が出来る。そして、いよいよ神の大恩を分からして頂くことが出来る。それをいちいち自分のかんに障りゃ、言うたり態度に出したり、又は、人を憎んだり、人を苦しめたり、又は、暴力を奮ったりするような結果にすらなってくる。それではいつまでも私は神の機感に適うことはないと思う。神の機感に適う氏子、他にも色々ありましょうけれども今日は、特にその人間関係、昨日一日、私はいくつもの難しい人間関係のことをです、御取次させて頂いて、難しいなあと、けれども神の大恩を知れば、むしろそれは相手にお礼を言わなければならないこと。例えば、んならお父さんが酒を飲む。飲んだらちょっと癖が悪いと。けれどもそんなら、自分でも実を言うたら、自分が飲んだら、こういうことになるということを知っておって、飲まなきゃおられないのであるから、いうならそれは酒飲みというのじゃない。それは病気だ。だから、お父さんはそういう病気で苦しんでおられるんだとして、ちょうど、病気のときに御取次を頂いてお願いするように、お父さんが飲まんごつなるごとといったようなことではなくて、その根本であるその病気の根を断たして頂くことを願いとするような信心。そして、飲みながら、いわば酔狂が出るときには、病気で苦しかろうというて撫でさすりしてやるときのような気持ちで、お父さんに接していったらいい。そういう見方をしたらどうだろうかと言うてお話をしたことですけれども。確かにそのものの見方考え方が変わってくる。それは神の大恩を知れば知る程そうである。ですから行の上にそれを表していきよらんと、神の大恩も分からんのですから、特に人間関係の上に、人間心を使うて、例えば、心にもない事を言うたりしたりして、機嫌をとってといったような一時押さえのようなことではいかんのです。根本的におかげを頂かにゃならん。
私は今日、ここんところを頂いたんですよね、無事というところを頂いたんですよ。無事ということは、なあにもない無風状態のことではないのだと。どんなことであっても、いわばそれを無事として受けていく、おかげとして受けていく。何事があってもそれをです、有り難いとして受けていくことになったら、やはり無事だということになるのです。それをいわば問題を問題としない。いやむしろ、問題をむしろ自分の信心の根肥やしにしていくと。自分の改まる材料としていくというふうな頂き方こそが、ここでいう無事健康ということだと思う。だから、子孫も続き身代も出来てくるところのおかげを頂かれるのだと思うのです。
私、今朝御祈念最後に南都雄二ということを頂くんですよ。どういうことだろうかと。それから御祈念を終わらせて頂いて下がらせて頂いてから、この七十八節の最後のところをです、頂きますから、それとこれとを思い合わせてね、思い合わせてひとつ、研究されるといいと思うのです。もっと深く分かられるといいと。南都雄二ということは「この字は何んという字ですか」という意味だそうですね。そこから南都雄二という芸名が出来たといわれております。あのお蝶さんが原稿を書く訳なんですね。ところがあんまり学問してないから字を知らん訳です。だから、これはお父さん、何という字ですかと聞いたちゅうです。そのなんというじちゃなかなかいい名だなあというて、なら南都雄二にしましょうて南都雄二したということです。自分が字が知らんから、これは何という字かと聞いた時にその南都雄二という名が生まれたと言われております。
ですから今日の御理解からいうとですたい、これは何という字かと、これはどういうことかと、それを責めたてるように言わずにです、ひとつ辞引を引いてみたら、すぐ分かるということ。私が日ごろ頂いておる信心を、ということを教えを開いたらすぐ分かるということ。というふうに私は頂いたんです。けれども神様の下さることですから、もっと深い意味でそれぞれに頂くところがあるだろうと思うのです。どうしてこげなこつするか、お前はどうしてそげん酒飲むか、どうしてどうしてというて追及する。もう相手の心をそれこそ切り刻むようにどうしてどうしてと、詰め寄って行く人が有るんです。これでは、もういよいよおかげは受けられません。どうしてではなくてからね、私共はこうして神様が分からして下さるんだと。こうして修行さして下さるんだという頂き方が出来ればね、いっちょん問題にはならないことを、お前はどうしてこげん遅かったのか、お前はどうしてこうかと、何という字かというて、その詰め寄るところにです、いうならば、夫婦別れをしなきゃならんようになってくるのじゃなかろうか。あの人達は夫婦別れをしておるでしょうが、だから、そういうような事もあると思うのです。お互いがどうしてどうしてというてその言うたところにですね、そういうことに結果がなったのです。喧嘩別れということになった。
だから、私共がね、どうしてと言わずに、こうして神様が分からして下さるんだというところにです、焦点を置いて特にそこのところを人間関係の上にです、無事健康でのおかげを頂かなきゃならん。その無事健康ということは、どうしてというときには必ず乱れる。だから、こうしてということになれば、そこからまとまっていく。そこから、言わんで済んでよかった。あの人の心を傷付けんでよかった。なあんにも言うことじゃなかったんだと、分かるような事を私共がどうしてどうしてと言っておるようなこともたくんあろうと思うのですよね。 どうぞ